ここで私の歩みに触れておきます。

 

 私は双子の兄です。1時間ほどだけ兄なのですが、双子ですから常に比較されます。勉強も部活動の陸上競技も正直、弟には負けられません。中学、高校と成績を張り出される学校でしたが、1時間でも遅く生まれた弟には負けられないのです。

 

 高校2年のころ左膝を痛め、陸上競技から遠ざかりました。早稲田大学理工学部2年になったころ、少しだけジョギングできるようになりました。そこで大学の陸上同好会に入りました。私と同じ陸上競技をしていた弟は同じ早稲田大学の商学部に入って、陸上同好会でのんびり過ごしていました。私は理工学部であったため文化系の学部のキャンパスとは異なり、週に何度も実験があり、授業数も多いため、同好会に籍だけ置いて、やむなく1人で練習を始めました。大学の2年では高校時代の記録に追いつくのがやっとでしたが、冬場に高い目標設定をし、必死に努力すると記録がぐんぐん伸びていき、3年時には陸上同好会の記録をいくつも更新していったのです。

 

 陸上競技で一番権威の高い試合の日本選手権に出たい。そう思いました。私の専門は

1500メートルです。名門の競走部なら1500メートル専門の練習や指導者がいるだろうと思い、入部しようと決めました。中村清監督が亡くなった翌年のことです。

 

 大学3年の7月、競走部に入部しようと部を訪問したのですが、1500メートルの中距離班の選手も指導者も今はいないと言われました。長距離班は箱根駅伝を目標にしています。

 

長距離斑でよければ練習生で仮入部させてあげると言われて入部しました。私は当時、箱根駅伝に出ることになるとは全く思っていませんでした。長距離の練習をすれば中距離の記録も上がるだろうし、インターカレッジなどでもかなり戦えるという計算です。

 

 私はキャンパスの中では大学3年生でしたが、競走部の中では1年生の扱いです。2~3年生には敬語を使わなければなりません。1年生からはタメ口でしゃべられます。仕方ない、そういうものだと思って、いろいろな感情を飲み込みました。今でもその付き合い方は変わりません。

 

 これまで勉強も陸上もコツコツと努力して伸ばしてきたという自負がありました。競走部でコツコツと練習を積み重ね、部に入って5カ月後の1988(昭和63)年の箱根駅伝では3区、89(昭和64)年は6区に出場しました。

 

 高校時代は5000メートルを走ったことがなく、ロードでの5キロメートルが16分51秒でした。大学時代で競走部に入る前が15分30秒、競走部に入って15分2秒(ただし当時競走部ではほとんど記録会には出ていない)、就職した旭化成では陸上部員ではなく一般社員で、研究職の仕事の傍ら一人で練習を重ねて14分15秒4という記録を出し、これは宗茂監督、猛助監督さんに高く評価されました。

 

 当時、宮崎県延岡市にある旭化成の工場でセルロース繊維の研究開発に携わっていました。しかし、工場の研究職ですと最終消費者が商品という「もの」を手にして喜んでいる姿が見えないのです。ビーカースケールで基礎研究がうまくいっても工場の既設の生産現場で効果がないと役に立ちませんし、製品を載せたトラックが出荷する場面にいても、糸を積んでいるだけでは喜びがないのです。それより、消費者から直接「今までと違うね」と言われるほうが私にはうれしいのです。

 

 こんな思いを抱いていたので、消費者に近いところで仕事がしたいと三陽商会に転職しました。6年ほど勤め、このあと4人でアパレルの会社を立ち上げました。出店資金を貯めるため役員報酬は当面ゼロです。ところが1期目が終わった時に決算書を見ようと思ったところ、社長はなぜか出してきません。おかしい。思ったとおりでした。大掃除をしている時に偶然見ることができたのですが、見た瞬間に暗然としました。東京・目黒の社長個人のマンションの家賃30万円を社宅扱いにして会社の経費で落としていたり、会社のお金で飲食していたり、そのうえ自分一人だけ毎月15万円の役員報酬を取っていたりしたことが分かったのです。資本金1000万円は応分の負担を私もしており、浪費を継続されると経営資源が減少するため、改めるよう社長に言いましたが、聞く耳を持ちません。私は彼を見限り、会社を辞めました。

 

その後は3カ月ほど日雇いのアルバイトをしながら次の就職先を探す事態に陥りました。当時私は37歳で、10歳と8歳、6歳と子供が3人いました。前職の三陽商会の年収850万円くらいはないと子供の教育費にお金を回せません。

 

 しかし37歳で中途入社して固定給850万円をもらえる仕事などありません。歩合制の仕事だけ可能性があるように思えました。住宅リフォームの会社を見つけて歩合制の営業職で内定をもらいました。が、社長にこう言われました。「あなたがうちに入社したら数字を上げることはできると思う。でも、ほかの社員と育ってきたキャリアが違うので、社内で全く話が合わないと思う。本当にここで働くかどうか自分自身で考えたほうがいい」。65歳までの28年間も話が合わない環境はつらいものがあります。内定を辞退しました。

 

 当時、某外資系生命保険会社の知り合いが2人いました。能力開発セミナーで知り合ったのです。そのころ私は生命保険に疑問を抱いていました。

 

父が60歳の時、脳内出血に襲われ東京・上野の地下道で倒れました。日本医科大学附属病院に1カ月入院し、その後自宅近くのリハビリ病院に転院して3カ月過ごしましたが、右半分にまひが残りました。

 

 父は器械体操の選手でした。高校時代に北海道のインターハイ予選で優勝したことがあり、インターハイや国体に出場したスポーツマンです。そんな父にまひが残り、歩くのも挨拶も大変です。あれほどのスポーツマンが家から出ようとしたがらなくなってしまいました。

 

父は三菱の冠のある上場企業に勤務していたためグループの明治生命の生命・入院保険に入っていたのですが、更新されないままで切れていたため、入院給付金などのお金は一切もらえませんでした。私は初めて生命保険の存在を意識しました。いや、意識というより疑問を抱いたというのが正確な表現です。そもそも生命保険って何、と。

 

 しかし私は危機に直面していました。待ったなしです。某外資系生命保険のライフプランナーに相談しました。

「入社するにはどうすればいいの」

 

 このライフプランナーを通じて採用担当の営業所長に会いました。営業所長は「平均所得は1600万円」と言っていました。紹介者は「1年間に80数件の契約をあげている」と誇らしげでしたから、それくらいの契約をいただけば平均所得くらいもらえるのでしょう。しかし私には無理だと思いました。一度、転職活動を辞退しました。

 

家族5人がつつましく暮らせればいい。そのためには850万円は稼がなければなりません。貯金は30万円。毎月7~8万円の住宅ローンがあります。この逼迫した状況を踏まえて、また採用担当の所長からも考え直すように諭され、さらに採否を支社長が迅速に判断し、入社を決めてくれました。